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-○エデンの彼方―狩猟採集民・農耕民・人類の歴史○【進歩史観を排して人類の歴史を根本から捉え直した瞠目の書】2016年05月17日 15:05

進歩史観を排して人類の歴史を根本から捉え直した瞠目の書


ヒュー ブロディ (著), 池 央耿 (翻訳)
単行本: 310ページ
出版社: 草思社 (2003/12/10)

■商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
狩猟採集民の社会・文化の特質を農耕民のそれと対比しながら、進歩史観を排して人類の歴史を根本から捉え直した瞠目の書。

内容(「MARC」データベースより)
人類学者・記録映画作家としての30余年のフィールドワークを踏まえて、狩猟採集民の社会・文化の特質を農耕民のそれと対比しながら、進歩史観を排して人類の歴史を根本から捉え直す。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ブロディ,ヒュー
人類学者にして記録映画作家。1943年、英国のシェフィールドで生まれる。オクスフォード大学トリニティ・カレッジで学んだのち、アイルランドのクイーンズ大学で社会人類学を教える。現在、ケンブリッジ大学スコット南極研究所の名誉研究員とトロント大学比較文学部の準教授を勤める。1997年以来、南アフリカのサン研究所でブッシュマンの歴史と土地に対する権利の研究を続けている(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次
はじめに 7
第1章 イヌイット語を学ぶ 13
第2章 天地創造 69
第3章 時空を翔ける 103
第4章 言葉を奪われて 163
第5章 農耕民の神、狩猟採集民の神 215
第6章 狩猟採集民と人類の歴史 259
補遺 297
訳者あとがき 308

■「はじめに」の冒頭部分
極地の夜は紺青に澄みきっている。 満天に星をちりばめ、オーロラが頭上に孤を描く。 刻々に姿を変えながら、永遠不動の宇宙を感じさせる壮麗な光の乱舞である。 氷原は月明に照り映えて、遠く視野の彼方(かなた)薄霞(うすがす)む。 雲一つない無窮の空は、凍てついた静寂に音立ててひびが走るかと思うほど燈明に張りつめている。 事実、その音を耳にしたと語る極地旅行者は少なくない。 吹きさらしの氷上は雪風巻(しま)くばかりである。
■「訳者あとがき」

本書はイギリスの人類学者で記録映画作家のヒュー・ブロディが三十余年のフィールドワークを踏まえて著した辺境の文化誌、THE OTHER SIDE OF EDEN:Hunter-gatherers, Farmers and the Shaping of the Worldの翻訳である。 副題が示す通り、狩猟採集文化と農耕文化の接点に立つ著者が、人類史の地平を越えた遠い彼方へ視線を馳せる企てで、詩情に満ちた極北の風景もさることながら、大方の通念を覆すブロディ持ち前の斬新な切り口は一種衝撃的とさえ言える。 二〇〇〇年の刊行以来、各国で高い評価を得ている一書である。

ヒュー・ブロディは本書で、今や滅びゆく少数民族と目されている狩猟採集民の実情を紹介し、圧倒的多数、いや、事実上は狩猟採集民以外のすべてである農耕民が彼らを辺境に追いやった歴史を検証している。 二つの文化は決定的に異質である。 だが、それは文化に優劣の差があることを意味しない。 ましては、それぞれの文化を営み人間の能力の問題では断じてない。 農耕民は文明の先端を歩み、狩猟採集民は進歩に取り残された未開人であるという固定観念は無理解ゆえの偏見でしかない、と著者は言う。 辺境に暮す少数民族とはいえ、明らかに農耕民よりも長い歴史を負っている狩猟採集民の知的な蓄積は端倪(たんげい)すえからざるものがある。 彼らは今を生きる(れっき)とした現代人であって、すなわち、農耕民とは同時代人であると考えなくてはならない。 これが本書の出発点である。

獲物を追って絶えず遊動する狩猟採集民は放浪者であり、地を耕して家を守る農耕民は定住者であるとよく言われる。 著者ヒュー・ブロディはこの考えを大胆に否定する。 歴史的観点から二つおn文化を眺めれば、遊動が常態であるかに見えながら、その実、獲物の棲息範囲を一歩も出ない狩猟採集民こそが定住者であって、代を重ねるうちに余剰人口が新しい土地を求めて移住せざるをえない農耕民は、古来、放浪の運命を課されている。

ヒュー・ブロディの説く逆転の発想に意表を衝かれる読書は少なくなかろうが、なお興味深いことに、著者は流浪の農耕民族の原点を旧約聖書、『創世記』に見だしている。 弟アベルを殺した罰に、農夫カインは浪々の身となり、額に汗して痩せ土を耕しながら遊動生活を続けなくてはならない。 が、やがてカインの末裔が行く先々で町を興し、都市文明を築く。 これが農耕民族による植民地開拓のはじまりである。 植民地の伸展によって、狩猟採集民は農業の成り立たない土地で昔ながらに生きることを余儀なくされた。

著者ヒュー・ブロティはイギリスに生まれ育ったが、両親はディアスポラの境遇にあるユダヤ人で、ブロディ自身、幼少の折りにユダヤ教の律法であるモーゼ五書、いわゆるトーラーを叩き込まれたことは本文にも述べられている。 世間一般の普通人とは比較にならないほどユダヤ教の世界を深く知る著者の、旧約に依拠した歴史解釈が根底を貫いているところに本書の際立った特色があると言えよう。 ブロディは狩猟採集民に対して判官(ほうがん)贔屓(びいき)の傾きがあるという指摘も一部に見られるが、狩猟民の文化を無条件に称揚することが著者の本意ではない。 異質な文化を単純に比較する意図もない。 歴史を考えるとは、未来に目を向けることにほかならず、そのためには、文明と未開、進歩と後進といった対立概念をひとまず脇へ置いて、歴史を輪切りにすれば同じ断面に位置している異文化を等距離に捉えることからはじめるべきだ、とブロディは説いているのである。

本書を通じて、読者は随所でさまざまな発見をするに違いない。 ヒュー・ブロディは広い視野と深い洞察から、現代社会で打ち捨てにはできない問題を提起してもいる。 例えば、植民地政策によって言葉を奪われた狩猟採集民の心情など、文章語と古典を失いかけている今の日本を考えると、とうてい他人事では済まされまい。 一方、イヌイットの暮しの情景を間近に見る写生文は本文の味わいを豊かにする貴重な記録である。 入口がいくつもあって、奥行きの知れない佳編と言うに値しよう。

原著には膨大な量の後註が付されている。 その半ばは参考文献を紹介しながら持説を傍証する内容だが、本文と重複するところも多々あって、いささか煩雑の感を免れない。 編集とも相談の上、補遺として抄訳の形で概略を伝えるに留めることをお断りしておく。

邦訳に際しては、草思社編集部の平山濶二氏にひとかたならずお世話になった。 また、日本ユニ・エージェンシーの武富義夫氏からは何かと助言をいただいた。 この場を借りて、深甚の感謝を表す次第である。

二〇〇三年十一月


■統計情報
ページ数310
目次数9
目次の細かさ34.4
索引の数0
参考文献一覧補遺に含めてあり一覧性なし
印象旧約聖書を引くなど『イシュマエル』との共通点が多い。これまでに私が得た知識と符合する内容が多いようである。

目次数はページ番号の付いた目次項目の数
目次の細かさは(ページ数/目次数)
目次の細かさが小さいほど、丁寧に目次が振られていることになります。

-○語る身体の民族誌―ブッシュマンの生活世界〈1〉 (ブッシュマンの生活世界 (1)) 【原野に生きる人々の猥雑な会話の中にヒトの文化と社会の成り立ちを見る】○2016年05月17日 16:39

原野に生きる人々の猥雑な会話の中にヒトの文化と社会の成り立ちを見る


菅原 和孝 (著)
単行本: 360ページ
出版社: 京都大学学術出版会 (1998/05)

■商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
原野に生きる人々の猥雑な会話の中にヒトの文化と社会の成り立ちを見る。奔放な「恋人関係」の噂、「糞」や「肛門」の話が飛び交うののしり、動物や食べものについての不思議な語り―ブッシュマンの、愉快で生き生きとした会話には、原野に生きる人々の精神世界と社会構造とが鮮やかに織り込まれている。精緻な会話記録という新しい民族誌の方法を示し、人類学の可能性を探る会心作。

内容(「MARC」データベースより)
奔放な「恋人関係」の噂、「糞」や「肛門」の語が飛び交うののしり、動物や食べものについての不思議な語り-ブッシュマンの、愉快で生き生きとした会話に、原野に生きる人々の精神世界と社会構造とを探る。

著者に付いて
菅原 和孝(すがわら・かずよし)
1949年 東京生まれ
1973年 京都大学理学部卒
1980年 京都大学大学院理学部研究科博士課程単位取得退学。北海道大学文学部助手、京都大学教養部助教授、京都大学総合人間学部助教授を経て、現在 京都大学総合人間学部教授。

■目次
草の家より iii
読者のために xix
     原語の発音と表記/会話資料の表記法/おもな登場人物

序章 会話の民族誌へむけて 1
  「民族誌を書くこと」への懐疑 2
  民族誌と会話分析 5
  会話分析を始めよう 11
  ブッシュマンの生態人類学 15
  変容 18
  会話分析に至るまで 21
  グイ語の概略 25

第一章 ことばのなかの身体 37
  民族解剖学――さまざまな筋肉 40
  内蔵間隔――心臓、肝臓など 48
  ライフサイクルのなかの身体 51
  語る身体 65
  罵りの修辞学 70
  想像力の基底としての身体 82

第二章 老いた恋人たち――婚外性関係の個人史 87
  たくさんの女をめとった男 88
  たくさんの恋人をもった女 91
  噂の二人 92
  対決 102
  批判の包囲 113
  冷静な夫 132
  結末 138

第三章 感情の回路――婚外性関係の論理 143
  年上の女――キヨーホとカウピリ 144
  贈り物を抱えてくる男――ギナシ 149
  若い娘をめとった青年――カローハ 160
  第三夫人になった女――ギューカ 171
  回顧されるザーク 181
  夫婦交換 185
  感情の回路 191

第四章 人間のカテゴリー化――「民族」間の境界 207
  カテゴリー化装置 208
  グイにとっての人間のカテゴリー 211
  <テベ>への不信と依存 212
  ガナへの否定的特質づけ 223
  クアとしてのわれわれ 234

第五章 物語の愉悦――民話はいかに語られるか 239
  フォークロアと生態 240
  姉と妹のかけあい 244
  老人に語り聞かせる娘 260
  民話と昔話 274

第六章 日常会話の背後へ――背景知と信念の活性化 281
  狂う人 282
  若者たちの食物忌避 299

終章 <語る身体>、自然、そして権力――途上での総括 317

注 334
引用文献 341
木の家にて 347
索引 352
事例一覧 【1】~【38】

■「読者のために」より

この本は、南部アフリカにひろがるカラハリ砂漠に住む狩猟採集民ブッシュマン(自称名グイ)が生きている世界を、かれらの日常会話を分析することを通じて明らかにしようとする試みである。

一九八〇年代以降にさかんになった「民族誌批判」に応えて多くの実験的民族誌が書かれた。 しかし、会話こそは人間の社会生活の根幹をなすもっとも中心的な現象であるにもかかわらず、会話を一次資料として民族誌を書くという試みは今までほとんどなされていない。 そのような未踏の領域に挑戦するという意味で、本書もまたひとつの実験である。 ただ、かぎられたページ数のなかに、かれらの会話世界の全体像を盛りこむことは不可能であった。 そこで、本書では、グイの人々が自らの<身体性>をどのように経験しているのかを、日常会話のなかから浮かびあがらせることを中心的なテーマに据えた。 会話という相互行為の構造、言語行為やコミュニケーションの理論といった、より抽象的な問題に関心のあるかたは、姉妹編である『会話の人類学(ブッシュマンの生活世界第2巻)』をあわせてお読みいただきたい。 ただし、本書はあくまでも第2巻とは独立に読めるようになっており、日本から遠く離れた異文化の人々がいったいどんなことをどんなふうにしゃべっているのかに好奇心をもち、その世界の深みまで旅をしようとする一般の読者をめざして書かれている。

日本語の「おしゃべり」でさえ、それを文字に転写するとなんの話かさっぱりわからないことがしばしばある。 グイの人々のおしゃべりを読者にとって理解可能なものとするために、本書では会話資料の逐語訳とそれをさらにかみくだいた説明とを並列させた。 この手法は、同じ話を二度聞かされる煩わしさを読者に押しつけるかもしれないが、民族誌家の構成したリアリティを絶対視することを避け、読者の想像力が解釈に参加する道を確保するためにも、ぜひとも必要であった。

異文化の人々の語りにみなぎる力と輝きは、ときには「冗漫」、「支離滅裂」といった否定的な印象の背後から徐々に立ち現われてくるかもしれない。 それゆえ、余計は理屈や概念を介在させずに、人々の「語りくち」の風味それ自体と出会うことをめざす読者は、会話資料の部分だけをまず通読するのがよいかもしれない。 しかし、もっとも重要なことは、会話資料と、それに並列された説明や分析の部分とを読み比べることによって、読者は、分析者の解釈の不十分さや過剰さを批評することができるということである。

すべての会話資料には【1】、【2】などと通し番号をつけたうえに、あとで言及するときにその内容が想起しやすいように簡単なタイトルを付した。

なお前著(『身体の人類学』河出書房新社、一九九三年)と同様、共同調査を続けている師や同僚の皆さんをはじめとして、本文中に登場するすべての人名からは敬称を省かせていただいた。 しるしてお詫びもうしあげたい。


■「人称代名詞と接尾辞」の冒頭部分(p26)

グイ語は非常に精密な人称代名詞の体系をもっている。 まず、一人称、二人称、三人称のすべてについて、単数、双数、複数の区別がある。 双数とは、二人(二個体)だけを表す代名詞である。 だからここで複数と言っているのは、三人(三個体)以上を表す代名詞のことである。 一人称単数には性別はないが、双数と複数は、一人称、二人称、三人称のすべてについて、性が区別される。 たとえば、日本人が単に「私たち」とか「われわれ」と言ってすませるところで、グイは、その「私たち」が男二人だけか、男と女のペアか、女二人だけか、あるいは男のみ三人以上か、男女三人以上か、女のみ三人以上かを、たちどころに表現するのである。 しかも、一人称の双数と複数には包含と排除の区別がある。 すなわち話者と聞き手をともに含む「われわれ」と、聞き手を排除する「われわれ」とを区別するのである。


■「罵りの修辞学」の「糞」から(p77)

一九八四年一二月一九日、私はキヨーホたちと車で水汲みに行き、そこで彼が<甥>にあたるカローと喧嘩をおっぱじめるのを目撃した。 キヨーホはカローを殴りつけ、カローは鼻血を出し、嗚咽しながらちょうどもっていたパチンコで石をとばしたが、これはあやういところでキヨーホからはずれた。 キヨーホはさらにカローを殴り、ちょうどここへ来あわせたキヨーホの母に制止された。 カローも同年配のガナの青年に取り押さえられた。 私たちが水場をひきあげるときまで、カローは涙声で罵り声をあげ続けていた。 キヨーホは車の屋根の上に乗ったので、私は助手席にいたグオグー(田中に詰め寄ったガナの男)に「なぜ彼らはアーク(喧嘩)したのか?」と訊いてみた。 「カローは若く、キヨーホは年長なのに、彼がキヨーホを<侮辱>(アオ)したからだ」との答えであった。 あとでキヨーホと二人だけになったとき同じ質問をすると同様の答えが返ってきた。 「カローはなんて言っておまえを侮辱したんだ?」と尋ねると「ツァ・チューと言ったんだ」と答えた。

この侮辱のことば「ツァ・チュー」はさきに述べた「おまえに糞をさせる」(ツァ・チューカホ)の省略形か、あるいは単に「おまえの糞」という意味かもしれない。 いずれにしても、和訳するならば「クソッたれ」がぴったりであろう。 これだけ激しい喧嘩の起爆剤になるにしてはあまりにあっけないことばである。 このエピソードからは重要な教訓が得られる。 つまり隣接世代の年長者に対して「言ってはならないこと」が明確に規定されており、そのタブーを破る者にはそれなりの制裁がくわえられるのである。 (日ごろはキヨーホに対してけっこう批判的なダオグーがこの事件ではカローに一片の同情も示さなかったことも注目に値する。) そして<糞>こそはその「言ってはならないこと」の中心を占めているのである。

-○わたし、解体はじめました ─狩猟女子の暮らしづくり─○【そこにある「命」と向き合い、悩み苦しみながら成長を続ける解体・狩猟女子の奮闘記】2016年05月17日 19:33

そこにある「命」と向き合い、悩み苦しみながら成長を続ける解体・狩猟女子の奮闘記


畠山千春 (著)
単行本(ソフトカバー): 192ページ
出版社: 木楽舎 (2014/3/31)

■商品の説明
内容紹介
そこにある「命」と向き合い、
悩み苦しみながらも成長を続ける
解体・狩猟女子の奮闘記

都会に住む、平凡な20代女子の著者は「自分の暮らしを自分で作る」べく、解体そして狩猟に挑戦し、現在では解体ワークショップを通して、大人から子どもまで命と向き合う場を提供しています。
本書では、平凡な女の子が新米猟師になるまでの過程や自給自足の狩猟ライフ、シェアハウスでの暮らしなどを綴りながら、動物別の解体方法や狩猟・解体をはじめたい人のためのガイドなど、イラストや写真を交えてわかりやすく紹介しています。
いのちが食べものになり、私たちの食卓に並ぶとはどういうことか、その問いに対する著者の真摯なメッセージが込められた一冊です。 「解体や狩猟をはじめたい人の入門ガイド」も収録。

内容(「BOOK」データベースより)
都会の女の子が田舎暮らしの猟師に!?そこにある「命」と向き合い、悩み苦しみながらも成長を続ける解体・狩猟女子の奮闘記。「解体・狩猟を始める入門ガイド」収録!

著者について
畠山千春(はたけやま・ちはる)
新米猟師/ライター
1986年生まれ。3.11をきっかけに、大量生産大量消費の暮らしに危機感を感じ、自分の暮らしを自分で作るべく活動中。
2011年から動物の解体を学び、今は鳥を絞めて食べるワークショップを開催している。
2013年狩猟免許取得、皮なめし修行中。
現在は食べもの、エネルギー、仕事を自分たちで作る糸島シェアハウスを運営。(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■もくじ
はじめに 4

第1章 平凡な女子が新米猟師へ 7
  私が解体と狩猟を始めたわけ 8
  生まれて初めて、鶏を締めた日 14
  体験をシェアしていこう 23

第2章 解体 命を締めていただく 29
  解体ワークショップ、実施しています 30
  うさぎ編 初めてのうさぎ狩り見学! 46
  テン(!?)編 知り合いの農家からテンがやってきた 54
  アナグマ編 シェアメイトがアナグマを拾ってくる 59
  烏骨鶏編 「育てて食べる」を実践する! 64

PHOTO 初めの一頭 81

第3章 狩猟 生きものとのやりとり 97
  狩猟を始める! 98
  タヌキ編 初めての「止めさし」 101
  イノシシ編 ついに、狩猟をしに山へ 107
  シティガール、山へ入る 117
  初めての獲物 129

第4章 山と街 お肉の事情 149
  山のお肉のおはなし 150
  街のお肉のおはなし 154
  認めて、感謝して、食べていく 165

第5章 解体・狩猟を始める入門ガイド 169
狩猟免許の取得方法/鶏の解体/
イノシシの解体と皮なめし/
皮なめし 詳細バージョン/イノシシを使い切る/
野生肉の料理/解体&狩猟の現場を味わう!

おわりに 188

■はじめに

この約3年間、仕事を辞めてシェアハウスを始めたり、農作業をしたり、太陽光パネル発電機などを作ってエネルギーの自給を試みたり、「自分の暮らしを自分でつくる」べく、さまざまなことにチャレンジしてきました。

食べものの自給について考えた結果、始めたのが解体と狩猟です。

本書は、解体について何も知らなかった私がその活動を始め、少しずつ狩猟へと進んでいく道のりを書き留めたものです。

現在、私は動物の解体が3年目、狩猟は1年目の新人です。 勉強中の身であり、未熟な点も多いと思いますが、経験値ゼロからスタートし、失敗したり、ビビったりしながらも、多くの方と出会い、歩んできた過程の記録になっています。

活動を通じて、強く感じたことがありました。

たとえば、スーパーで売られているパック詰めのお肉、衣料品店にずらりと並ぶダウンジャケット、長年愛用している革財布。

暮らしの中で見かけるそれらの先にはすべて、動物の命があるという当たり前のことです。

本書では、私が動物の解体や狩猟をした体験を中心に、食肉や卵などがどのように生産されているかなど、さまざまな「ものの過程」を紹介しています。

また、「狩猟に興味はあるけれど、どこから始めたら良いのか分からない」 「食肉センターを見学してみたい」という方のために、狩猟免許取得方法、見学可能な食肉センター、解体免許取得方法、見学可能な食肉センター、解体ワークショップや狩猟体験ツアーを実施している団体の紹介など、次の一歩を踏み出すための実用的な情報も、第五章「解体・狩猟を始める入門ガイド」として掲載しています。

命は、その現場に立ち会わなければ感じ取れないことがたくさんあります。

その場にいなかった方に、自分が感じたことを文章で伝える行為は、私にはとても難しいことでした。 このテーマが、これまであまり明るみに出ていなかった類のものだったことも深く関係しています。

私なりにテーマと向き合い、なんとか紡ぎ出した言葉が一冊の本となりました。 つたない部分が多いのですが、何かを感じとっていただければ幸いです。

本書との出会いが、新しい体験の始まりになりますように。

畠山千春


■おわりに

解体や狩猟を通じて学んだことは、数えきれないほどあります。 一方で、それと同じくらい悩むことも増えました。 動物たちの命のこと、それに支えられて私たちが生きていくこと……。 でも、こうしてずっと考え続けることが、命と向き合うことなのだと感じるようになりました。

本書の発行が決まってから、執筆しながら何が正しいことなのか分からなくなったり、誰かを傷つけていないかと考え込んでしまったりすることが多々ありました。 それでもなんとかこの本を完成させることができたのは、ここまで支えてくださった方々のおかげです。

特に、狩猟について多くのことを教えてくださった津留健児さん、江口政継さん、ありがとうございました。

答えのないテーマだからこそ、私やこの本に関わること自体に覚悟だったと思います。 そんななか、一緒になって命の現場に立ち会い、考え、共に学んでくださった関係者の方々には感謝の気持ちでいっぱいです。 深い愛情で私を応援してくれた一番の理解者、編集の小久保よしのさん。 自分のことのように親身になってアドバイスをくださったデザイナーの中村未里さん、全身全霊でこのテーマと向き合ってくれた写真家の亀山ののこさん。 そして鮮やかなイラストで表紙を飾ってくださったMurgraphこと下平晃道さん、動物の口絵や解体などのイラストを美しく描いてくださった岸本敬子さん、ていねいな構成をしてくださった由木高士さん。

優しく見守ってくださった『ソトコト』編集長の指出一正さんをはじめ、木楽舎の野口修嗣さん、早野隼さんにも何度も背中を押していただきました。 素晴らしいメンバーと一緒にこの本が作れたことを、心からうれしく思います。 みなさま、ありがとうございました。

また、初めての解体からずっと一緒に命のことを考えてくれた浩一さん、付き進む私を温かく支えてくれたシェアメイトのあいちゃん、まいちゃん、あかねちゃん、まっちゃん、さだくん、ありがとう。 みんななしでは、この本は書けませんでした。

そして、私に生きること、食べることをこれまで以上に考えさせてくれたスヤとモグ、山のイノシシたちも、本当にありがとう。

私はまだ、スタート地点に立ったばかり。 これからも実践を重ね、考え続けたいと思っています。

本書を通じて、暮らしを自分たちでつくっていく仲間が増えれば、何よりうれしいです。

2014年3月

畠山千春