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○■間引きと水子――子育てのフォークロア――■ ― 2016年09月02日 21:27
■書評
るびりん書林 別館
千葉 徳爾 (著), 大津 忠男 (著)
-: 256ページ
出版社: 農山漁村文化協会 (1983/07)
■商品の紹介
内容
「間引き」は一つの文化現象であって単なる嬰児殺害ではなかった。文化というものはその背景となる社会が生み出したものであり、そのにないては人である。
そのような文化を持つ前代日本人の文化行動の基礎となる本質的な構造と思考の方式とが、どの点では変りどの部分では古いものを保っているのか。また、そのような社会・文化の諸要素の組合わせと、それらの変動、つまり文化的構造の推移のしかたと、それが表面的社会現象としてはどのような形となるのか、などを考察してみたいというのが著者らの目的である。
著者に付いて
千葉徳爾(ちば とくじ)
1916年千葉県生れ。1939年東京高等師範学校文科4部卒。東京教育大、信州大、愛知大、筑波大を経て現在、明治大学教授。
『狩猟伝承研究』正統後篇(法大出版局)
『風土論』(朝倉書店)
『地域と伝承』(大明堂)
『切腹の話』(講談社)
大津忠男(おおつ ただお)
1956年福島県生れ。1979年筑波大学人文学類卒。
現在、茨城県立茨城東高校教諭。
(本書の発行時に掲載されていたデータです)
■目次
まえがき
第一部 間引きは常習ではなかった
序章 日本人の生命観
1 死者・墓・霊魂 14
・死者―墓のない人 14
・墓とは何か 16
・遺体処理にみる生命観のちがい 18
・差別される子どもの墓 20
・仏にしてはならぬ魂 24
・民衆の霊魂観 25
2 間引きと子どもの霊魂 27
・間引きという言葉 27
・子殺しは中世にもあった 29
・間引きの地方呼称 31
・生命観の地域的変化 35
第2章 通説「間引き論」批判
1 著者らの問題意識 39
2 間引きに対する通説と疑問 41
・間引き「通説」のいつくか 41
・「通説」への疑問と研究方法の批判 46
3 間引き資料としての絵馬の問題 65
・柳田国男の見たもの 65
・木版絵と地獄図の間引き 71
・間引き絵馬奉納の意味 76
・絵馬分布のかたよりが示すもの 78
第3章 江戸期の人口停滞の原因
1 間引きがなくても人口が停滞する根拠 81
・問題の手がかり――凶荒の影 81
・越前国「宗門改人別帳」の研究 83
・会津山村にみる貧農の結婚難 89
・昭和初期でも五割に近かった乳幼児の死亡率 91
2 寺院過去帳による分析――事実に即しての考察 94
・津軽金木町の過去帳の研究 94
・飛騨地方における過去帳の研究 96
3 結論――間引きは常習ではなかった 107
第二部 間引きをめぐる先人の心意――民俗学の方法
第4章 民俗学における間引きの見方
1 民俗資料による間引き・子おろしの考察 112
・民俗資料を使う意義 112
・資料『日本産育習俗資料集成』 について 114
・間引きをめぐる伝承 118
・子おろしをめぐる伝承 125
・子おろしの原因――密通 129
・間引きと子おろしの地域的差異が示すもの 131
2 間引きの底流にあるもの――津軽の民俗調査から 135
第5章 子どもの葬法からみた先人の心意
1 子どもの葬法に関心がもたれなかった不思議 143
2 著者らが選んだ調査地の概要 150
3 成人の葬法にみる死と霊魂についての考え 151
4 子どもの葬法の特徴 162
5 子どもの霊魂はどこへ 168
・ジゾッコとタモトオトシという言葉 169
・サイノカワラについて 172
6 生れかわる子どもの魂 178
・平田篤胤『勝五郎再生紀聞』 178
・輪廻思想とのかかわり 180
第三部 子育てのフォークロア――現代への架橋
第6章 子育てからみた常民の心意
1 子どもの無事を祈る民俗のかずかず 186
2 通過儀礼と庶民の心意 190
・通過儀礼研究の意義 190
・胎児の段階 192
・幼児の段階 197
・地域の特性はみられるか――調査から 203
第7章 かつて子どもは地域全体で育てられた
1 子どもの成長と地域社会の承認と支持①――脇川の調査から 209
2 子どもの成長と地域社会の承認と支持②――玉取の調査から 215
3 着衣の変化からみた社会的承認 222
終章 現代の子育てをめぐって
1 荒廃する現代の子育て――水子供養のはやる背景 235
2 叱り方にみる親と子の真実の絆 238
・「お前は拾った子だから……」といわれても 238
・孤独な群衆としての子どもの出現 241
3 郷党教育の後退と精神的間引きの増大 243
4 今、親たちに望むもの 248
参考文献 253
あとがき 255
○■睡眠文化を学ぶ人のために■ ― 2016年07月16日 09:47
高田 公理 (著, 編集), 重田 眞義 (編集), 堀 忠雄 (編集)
単行本(ソフトカバー): 267ページ
出版社: 世界思想社 (2008/4/20)
■商品の説明
内容紹介
豊かで楽しい眠りの世界へ! 夢のコントロール技法、諸民族の夢理論、就眠儀礼、シエスタ文化、眠具、狸寝入り......。文系/理系の枠を超えたアプローチで、眠りの文化の全貌を明らかにし、新しい研究へと誘う。テーマ別文献リストつき。
出版社からのコメント
睡眠文化研究の集大成
内容(「BOOK」データベースより)
夢のコントロール技法、諸民族の夢理論、就眠儀礼、シエスタ文化、眠具、狸寝入り…文系/理系の枠を超えたアプローチで眠りの文化の全貌を明らかにし、新しい研究へと誘う。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
高田/公理
1944年、京都生まれ。佛教大学教授(社会学・文明学・観光学)。学術博士。京都大学理学部卒業後、酒場経営、武庫川女子大学教授などを経て現職
堀/忠雄
1944年、北海道生まれ。広島大学名誉教授(睡眠科学・睡眠心理学)。医学博士。早稲田大学院博士課程(心理学専攻)中退後、金沢大学医学部研究生、福井大学保健管理センター講師(カウンセラー)、広島大学教授などを経て現職。現在、財団法人福山通運渋谷長寿健康財団睡眠研究所所長
重田/眞義
1956年、京都生まれ。京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科准教授(アフリカ地域研究、人類学、民族植物学)。農学博士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■目次
序章 睡眠文化とは何か 高田公理 i
第I部 夢と睡眠行動部 1章 フロイトの夢分析と脳科学 北浜邦夫 24
2章 夢の民族誌 豊田由貴夫 39
3章 眠り<プレイ>モデルと寝室地図 藤本憲一 58
4章 相互浸透する眠りと覚醒 掘忠雄 76
第II部 眠りの時空間
5章 眠りの時間と寝る空間―歴史的考察 高田公理・鍛冶 恵 94
6章 眠りを誘う音・光・香り 鳥居鎮夫 111
7章 眠具―眠りにまつわるモノの世界 松浦倫子 124
第III部 睡眠文化学の未来へ
8章 人類学からのアプローチ 豊田由貴夫 146
9章 社会学からのアプローチ 重田眞義 164
10章 心理学・行動科学からのアプローチ 掘 忠雄 179
11章 睡眠諸科学の基礎づけ―哲学的考察 藤本憲一 192
12章 睡眠文化を学ぶ人へ 重田眞義 212
終章 人はなぜ眠るのか 座談会(高田公理・掘 忠雄・重田眞義・鳥居鎮夫・豊田由貴夫・藤本憲一) 225
ひと眠りコラム
1 宇宙での眠り 水野 康 56
2 居眠りと狸寝入り ブリギッテ・シテーガ 90
3 『源氏物語』の眠りと光 小山恵美 122
4 枕の世界地図 鍛冶 恵 142
5 眠りの進化論 山際寿一 162
6 眠り姫になれなくて 鷲田清一 210
引用文献 246
睡眠文化を学ぶための文献リスト(テーマ別) 261
睡眠文化を学ぶためのキーワード解説 253
あとがき 243
■序章「睡眠文化とは何か」より
睡眠、すなわち「眠る」という生理的な行為それ自体は、遺伝的に組み込まれた先天的な資質に由来する。それは人間だけでなく、広く動物一般に普遍的にあてはまる。しかし「人間の寝方や眠り方」は、地域や時代ごとに、さまざまなバリエーションを示す。こうした多様性は、それぞれの環境条件のもとで、歴史的に形成されてきた。それを人びとは後天的に見につける。それは「睡眠文化」と呼ぶほかないのだ。
という意味で「眠り」は「食」に似ている。動物も人間も必ず何かを食べる。そうでないと生きていけない。「食べる」という行為は「眠る」という行為に似て、人間を含む動物一般に普遍的、かつ先天的な生理的行動である。
しかし「食べる」ための食物を生産し、料理し、仲間と共食する動物は人間だけだ。しかも、食べ物、料理法、食事マナーなどは、地域や時代ごとにおびただしい多様性を示す。それは、さまざまな「人間の寝方や眠り方」お同様「文化」の一領域を形づくっている。そして、それを対象とする食文化研究は今日すでにおこなわれている。
ならば、人間の睡眠や眠りを、地域や時代ごとに比較し、人間の睡眠について考える研究領域が開拓されてもいい。そこで、われわれ睡眠文化研究会は「睡眠文化研究」の第一歩を踏み出した。その成果のひとつに『眠りの文化論』(吉田編 二〇〇一)がある。
■書評
るびりん書林 別館
○■アラブからこんにちは■ ― 2016年05月28日 20:11
ハムダなおこ (著)
単行本: 342ページ
出版社: 国書刊行会 (2013/6/25)
■商品の説明
内容紹介
日本が原油の9割を依存するUAEに嫁いだ日本女性が、20年余の体験から知られざる湾岸中東生活を語る。
想像を超えた気候、迷信、宗教、人々の考え、生活習慣、女性など、子育てと地域活動から深く観察するエッセイ。
内容(「BOOK」データベースより)
シリコンが溶けてしまう熱さとは?水道水で大やけどする生活とは?砂漠で魔人に遭遇したら?UAE在住20年余の著者が語る知られざるアラブの日常!
著者について
日本UAE文化センター代表1989年早稲田大学文学部文芸科卒。1990年、UAE男性と国際結婚し、UAEに移住。3男2女をもうける。2004年からインターネットでUAE社会についてのエッセイ『アラブからこんにちは』を書き始める。2005~9年、アラブ・イスラームの生活について勉強会を主宰。その後、日本人に向けて講演、エッセイなどでUAE社会を紹介し続ける。2008年、日本UAE文化センターを創設。日本文化をUAE地域社会に、UAE文化を日本社会に伝える活動を続けている。翻訳書に『シャヒード100の命』インパクト出版社がある。2012年、第8回文芸思潮エッセイ賞受賞。
■目次
プロローグ 1
第一章 灼熱との闘い 9
夏の盛り 10
こわーい停電の話 26
砂漠の国に雨が降ると 42
第二章 アラブの女性たち 69
娘について思うこと 60
ベールのこちら側 70
ある結婚式の情景 84
おんなの生活 102
第三章 超自然現象とのつきあい 119
モバイルのゆくえ 120
吹雪の夜 135
第四章 イスラームのはなし 151
ラマダーンの前夜 152
喜捨の心得 165
ラマダーン真剣勝負 180
第五章 湾岸アラブで子育て 195
砂漠のキャンプ 196
サプライズ 206
遅れた新学期 221
第六章 激変するUAE 237
ザイード大統領の功績 238
砂に願いを 251
偉人の思い出 270
四十年の歩み 284
ちょっとした思い出 301
祖母のはなし(第八回「文芸思潮」エッセイ賞受賞作) 323
エピローグ 332
■プロローグ
真夏の気温は五十度、湿気は八十%を超え、熱風が街を普通に流れている。 海水は風呂のように熱い。 そんな過酷な自然の中で、果たして人間が人間らしく生きているのかと不思議に思うでしょう。 でも世界にはあらゆる地域があり、あらゆる条件のもとに生活しています。 アラブ首長国連邦(UAE)は、中東アラビア半島の北岸、ホルムズ海峡の南に位置する国です。 私はまさか自分がこのような場所に嫁いで、長い年月を過ごすとは想像もしていませんでした。
一九九〇年、「世界青年の船」という政府の国際交流プログラムに参加して、夫と出会いました。 ちょうど湾岸戦争が勃発した時期で、私の家族はもちろん結婚に大反対です。 当時中東と聞けば、人々の記憶になるのは石油ショック、宗教の聖地問題、髭面の男性がラクダに乗る砂漠、黒布の女性が抑圧されて生活する地、という印象しかありませんでした。 そこへ嫁にいくなんて、まるで女性蔑視の宗教国に奴隷にいくように想像して、誰もが反対していました。 同時に夫の親族も大反対。 血族を最も大事にするアラブ社会では、外国人の嫁など何の価値もないのです。 しかし私たちは結婚して、五人の子どもに恵まれました。 どんな結婚生活になるか、子どもたちがどう育つかなど、未来がまったく白紙だった時代は過ぎて、自分たちなりに創り上げた自由で豊かな生活をしています。
■書評
本が好き!
-○語る身体の民族誌―ブッシュマンの生活世界〈1〉 (ブッシュマンの生活世界 (1)) 【原野に生きる人々の猥雑な会話の中にヒトの文化と社会の成り立ちを見る】○ ― 2016年05月17日 16:39
菅原 和孝 (著)
単行本: 360ページ
出版社: 京都大学学術出版会 (1998/05)
■商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
原野に生きる人々の猥雑な会話の中にヒトの文化と社会の成り立ちを見る。奔放な「恋人関係」の噂、「糞」や「肛門」の話が飛び交うののしり、動物や食べものについての不思議な語り―ブッシュマンの、愉快で生き生きとした会話には、原野に生きる人々の精神世界と社会構造とが鮮やかに織り込まれている。精緻な会話記録という新しい民族誌の方法を示し、人類学の可能性を探る会心作。
内容(「MARC」データベースより)
奔放な「恋人関係」の噂、「糞」や「肛門」の語が飛び交うののしり、動物や食べものについての不思議な語り-ブッシュマンの、愉快で生き生きとした会話に、原野に生きる人々の精神世界と社会構造とを探る。
著者に付いて
菅原 和孝(すがわら・かずよし)
1949年 東京生まれ
1973年 京都大学理学部卒
1980年 京都大学大学院理学部研究科博士課程単位取得退学。北海道大学文学部助手、京都大学教養部助教授、京都大学総合人間学部助教授を経て、現在 京都大学総合人間学部教授。
■目次
草の家より iii
読者のために xix
原語の発音と表記/会話資料の表記法/おもな登場人物
序章 会話の民族誌へむけて 1
「民族誌を書くこと」への懐疑 2
民族誌と会話分析 5
会話分析を始めよう 11
ブッシュマンの生態人類学 15
変容 18
会話分析に至るまで 21
グイ語の概略 25
第一章 ことばのなかの身体 37
民族解剖学――さまざまな筋肉 40
内蔵間隔――心臓、肝臓など 48
ライフサイクルのなかの身体 51
語る身体 65
罵りの修辞学 70
想像力の基底としての身体 82
第二章 老いた恋人たち――婚外性関係の個人史 87
たくさんの女をめとった男 88
たくさんの恋人をもった女 91
噂の二人 92
対決 102
批判の包囲 113
冷静な夫 132
結末 138
第三章 感情の回路――婚外性関係の論理 143
年上の女――キヨーホとカウピリ 144
贈り物を抱えてくる男――ギナシ 149
若い娘をめとった青年――カローハ 160
第三夫人になった女――ギューカ 171
回顧されるザーク 181
夫婦交換 185
感情の回路 191
第四章 人間のカテゴリー化――「民族」間の境界 207
カテゴリー化装置 208
グイにとっての人間のカテゴリー 211
<テベ>への不信と依存 212
ガナへの否定的特質づけ 223
クアとしてのわれわれ 234
第五章 物語の愉悦――民話はいかに語られるか 239
フォークロアと生態 240
姉と妹のかけあい 244
老人に語り聞かせる娘 260
民話と昔話 274
第六章 日常会話の背後へ――背景知と信念の活性化 281
狂う人 282
若者たちの食物忌避 299
終章 <語る身体>、自然、そして権力――途上での総括 317
注 334
引用文献 341
木の家にて 347
索引 352
事例一覧 【1】~【38】
■「読者のために」より
この本は、南部アフリカにひろがるカラハリ砂漠に住む狩猟採集民ブッシュマン(自称名グイ)が生きている世界を、かれらの日常会話を分析することを通じて明らかにしようとする試みである。
一九八〇年代以降にさかんになった「民族誌批判」に応えて多くの実験的民族誌が書かれた。 しかし、会話こそは人間の社会生活の根幹をなすもっとも中心的な現象であるにもかかわらず、会話を一次資料として民族誌を書くという試みは今までほとんどなされていない。 そのような未踏の領域に挑戦するという意味で、本書もまたひとつの実験である。 ただ、かぎられたページ数のなかに、かれらの会話世界の全体像を盛りこむことは不可能であった。 そこで、本書では、グイの人々が自らの<身体性>をどのように経験しているのかを、日常会話のなかから浮かびあがらせることを中心的なテーマに据えた。 会話という相互行為の構造、言語行為やコミュニケーションの理論といった、より抽象的な問題に関心のあるかたは、姉妹編である『会話の人類学(ブッシュマンの生活世界第2巻)』をあわせてお読みいただきたい。 ただし、本書はあくまでも第2巻とは独立に読めるようになっており、日本から遠く離れた異文化の人々がいったいどんなことをどんなふうにしゃべっているのかに好奇心をもち、その世界の深みまで旅をしようとする一般の読者をめざして書かれている。
日本語の「おしゃべり」でさえ、それを文字に転写するとなんの話かさっぱりわからないことがしばしばある。 グイの人々のおしゃべりを読者にとって理解可能なものとするために、本書では会話資料の逐語訳とそれをさらにかみくだいた説明とを並列させた。 この手法は、同じ話を二度聞かされる煩わしさを読者に押しつけるかもしれないが、民族誌家の構成したリアリティを絶対視することを避け、読者の想像力が解釈に参加する道を確保するためにも、ぜひとも必要であった。
異文化の人々の語りにみなぎる力と輝きは、ときには「冗漫」、「支離滅裂」といった否定的な印象の背後から徐々に立ち現われてくるかもしれない。 それゆえ、余計は理屈や概念を介在させずに、人々の「語りくち」の風味それ自体と出会うことをめざす読者は、会話資料の部分だけをまず通読するのがよいかもしれない。 しかし、もっとも重要なことは、会話資料と、それに並列された説明や分析の部分とを読み比べることによって、読者は、分析者の解釈の不十分さや過剰さを批評することができるということである。
すべての会話資料には【1】、【2】などと通し番号をつけたうえに、あとで言及するときにその内容が想起しやすいように簡単なタイトルを付した。
なお前著(『身体の人類学』河出書房新社、一九九三年)と同様、共同調査を続けている師や同僚の皆さんをはじめとして、本文中に登場するすべての人名からは敬称を省かせていただいた。 しるしてお詫びもうしあげたい。
■「人称代名詞と接尾辞」の冒頭部分(p26)
グイ語は非常に精密な人称代名詞の体系をもっている。 まず、一人称、二人称、三人称のすべてについて、単数、双数、複数の区別がある。 双数とは、二人(二個体)だけを表す代名詞である。 だからここで複数と言っているのは、三人(三個体)以上を表す代名詞のことである。 一人称単数には性別はないが、双数と複数は、一人称、二人称、三人称のすべてについて、性が区別される。 たとえば、日本人が単に「私たち」とか「われわれ」と言ってすませるところで、グイは、その「私たち」が男二人だけか、男と女のペアか、女二人だけか、あるいは男のみ三人以上か、男女三人以上か、女のみ三人以上かを、たちどころに表現するのである。 しかも、一人称の双数と複数には包含と排除の区別がある。 すなわち話者と聞き手をともに含む「われわれ」と、聞き手を排除する「われわれ」とを区別するのである。
■「罵りの修辞学」の「糞」から(p77)
一九八四年一二月一九日、私はキヨーホたちと車で水汲みに行き、そこで彼が<甥>にあたるカローと喧嘩をおっぱじめるのを目撃した。 キヨーホはカローを殴りつけ、カローは鼻血を出し、嗚咽しながらちょうどもっていたパチンコで石をとばしたが、これはあやういところでキヨーホからはずれた。 キヨーホはさらにカローを殴り、ちょうどここへ来あわせたキヨーホの母に制止された。 カローも同年配のガナの青年に取り押さえられた。 私たちが水場をひきあげるときまで、カローは涙声で罵り声をあげ続けていた。 キヨーホは車の屋根の上に乗ったので、私は助手席にいたグオグー(田中に詰め寄ったガナの男)に「なぜ彼らはアーク(喧嘩)したのか?」と訊いてみた。 「カローは若く、キヨーホは年長なのに、彼がキヨーホを<侮辱>(アオ)したからだ」との答えであった。 あとでキヨーホと二人だけになったとき同じ質問をすると同様の答えが返ってきた。 「カローはなんて言っておまえを侮辱したんだ?」と尋ねると「ツァ・チューと言ったんだ」と答えた。
この侮辱のことば「ツァ・チュー」はさきに述べた「おまえに糞をさせる」(ツァ・チューカホ)の省略形か、あるいは単に「おまえの糞」という意味かもしれない。 いずれにしても、和訳するならば「クソッたれ」がぴったりであろう。 これだけ激しい喧嘩の起爆剤になるにしてはあまりにあっけないことばである。 このエピソードからは重要な教訓が得られる。 つまり隣接世代の年長者に対して「言ってはならないこと」が明確に規定されており、そのタブーを破る者にはそれなりの制裁がくわえられるのである。 (日ごろはキヨーホに対してけっこう批判的なダオグーがこの事件ではカローに一片の同情も示さなかったことも注目に値する。) そして<糞>こそはその「言ってはならないこと」の中心を占めているのである。
◎■虫はごちそう■ ― 2016年04月15日 17:32
野中 健一 (著)
単行本: 183ページ
出版社: 小峰書店 (2009/11)
■商品の説明
出版社からのコメント
イナゴ、コオロギ、イモムシ、スズメバチ......。たくさんの虫が世界で、そして日本で食べられている。
肉よりも値段が高く、コクのある味が外国人観光客にも人気のコオロギ(ラオス)。蒸し焼きにすると、ほくほくした食感がおいしいイモムシ(アフリカ・カラハリ砂漠)。愛好家のおじさんたちが魚や肉や砂糖水を与え、いとおしんで育てる「はちの子」(日本)......。
食べ物を口にすることは、自然を身体に取り込むこと。虫の生態や周囲の環境を知り、技を駆使してつかまえ、こだわって料理し、おいしさを分かち合う。自然と人とのつながり、そして人と人とのつながりの深さが、食べ物を「ごちそう」という豊かなものにする。
20カ国以上をまわり、現地の人々と暮らしをともにしてきた野中健一・立教大学教授が、子どもたちに向けた初めての書き下ろし。「世界には、さまざまな虫を食べる人がいるんだ、という驚きや感動が、世界の人々の暮らしや価値観、環境へと関心を広げていく」。一匹の虫から、食べることの本質や、世界各地の人々がそれぞれ大切にしてきた文化へと、思いは広がります。
イラストを描かれたのは、『一清&千沙姫シリーズ』『とりかえ風花伝』(いずれも白泉社)などで知られる少女漫画家・柳原望先生。楽しさと資料性に富んだ図解、なんと実物大の虫の線画、そしてパラパラ漫画まで、読んでも眺めてもお楽しみいただけます。
この一冊をきっかけに、子どもたちの世界や他者に向けるまなざしがより開かれることを願ってやみません。(小峰書店編集部)
内容(「BOOK」データベースより)
イナゴ、コオロギ、イモムシ、スズメバチ…。たくさんの虫が世界で、そして日本で食べられている。虫を知り、採る技をみがき、こだわって料理し、おいしさにほほ笑む。さあ、虫と、それを食べる人々の暮らしをみにいこう。
著者について 著者 野中健一(のなか・けんいち) 1964年,愛知県生まれ。名古屋大学大学院文学研究科史学地理学専攻中退。博士(理学)。現在,立教大学文学部教授。専攻は地理学,生態人類学,民族生物学。
祖父がハチ採りの名人だったことや,大学時代に林業の仕事で山に入った際にはちの子を口にしたことが,昆虫食の研究につながった。これまでに20を超える国々を訪れ,昆虫食を通して,自然と人間との関わりについて考察を進めている。学術書に『民族昆虫学-昆虫食の自然誌』(東京大学出版会),『ヴィエンチャン平野の暮らし-天水田村の多様な環境利用』(編著,めこん),『環境地理学の視座-<自然と人間>関係学をめざして』(共著,昭和堂),『野生のナヴィゲーション-民族誌から空間認知の科学へ』(編著,古今書院)など。一般向けの本に,2008年に人文地理学会賞を受賞した『虫食む人々の暮らし』(NHKブックス),『昆虫食先進国ニッポン』(亜紀書房)がある。
イラスト 柳原 望(やなはら・のぞみ)
漫画家,イラストレーター。愛知県生まれ。少女漫画誌を中心に活躍する。代表作に『一清&千沙姫シリーズ』『とりかえ風花伝』(いずれも白泉社)など。家庭用ロボットを描いたSF『まるいち的風景』(同)は,『TIME』誌アジア版のロボット特集にも掲載された。いっぽう,野中氏のフィールドワークに同行,取材し,『虫食む人々の暮らし』や『昆虫食先進国ニッポン』のイラストを担当。自然と人間との複合的な関わりを楽しく,分かりやすく表現している。現在,若手の地理学者を主人公に,食と家族の絆を描くコメディ『高杉さん家のおべんとう』(メディアファクトリー)を執筆。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
野中/健一
1964年、愛知県生まれ。名古屋大学大学院文学研究科史学地理学専攻中退。博士(理学)。現在、立教大学文学部教授。専攻は地理学、生態人類学、民族生物学。祖父がハチ採りの名人だったことや、大学時代に林業の仕事で山に入った際にはちの子を口にしたことが、昆虫食の研究につながった。これまでに20を超える国々を訪れ、昆虫食を通して、自然と人間との関わりについて考察を進めている。『虫食む人々の暮らし』で2008年に人文地理学会賞を受賞(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
■もくじ
初めに 6
・虫のチョコレート!? 6
・虫も食べ物 8
・昆虫食を探ってみよう 11
第一章 お弁当にバッタ!?――イナゴと日本人―― 14
・イナゴ採りの思い出 14
・学校はイナゴ基地 15
・母のイナゴ採り 18
・イナゴを料理する 21
・はじめて食べてみると 26
・ほかのバッタはどうだろう 28
第二章 コオロギは町のごちそう
――ラオスの暮らしと自然への信頼― 30
・秋の市場 30
・イナゴ採りに励む 35
・ラオスの村に住む 38
・田んぼと暮らし 44
(雨の夏の日/実りの秋に)
・コオロギ採りの日々 56
(コオロギ少年/川の中の道/出作り小屋)
・冬はカメムシ 72
(男の子の活躍/フンコロガシ/お母さんはツムギアリ採り)
・チュオを作ってみよう 86
(ラオスの食事/虫のグルメ/虫チェオ)
・町の市場――虫は高級食―― 91
(虫の売り方いろいろ/市場で売ること) 93
第三章 砂漠に生きる ――イモムシのおやつ―― 100
・カラハリ砂漠と狩猟採集民 100
・イモムシが出てくる 107
(はじめてのイモムシ採り/子どものおやつ/サソリを作るのか?)
・シロアリが飛んだ 117
(夕立ちがくる/虹の後から)
・タマムシの季節 125
(おいしく料理する)
・アフリカのイモムシ食 130
(自然の中の想像力)
第四章 大人は はちの子 ――スズメバチに挑む―― 136
・スズメバチは危ない? 136
(獰猛なハンター/森では気をつけよう)
・スズメバチを採る 139
(掘り出す)
・はちの子を料理してみよう 144
(はちの子ご飯)
・クロスズメバチを育てる 149
(みんなで育てる文化/7キロの巣/2000本の五平餅)
第五章 「ごちそう」は「親しむ」ことから 166
・「おしいさ」の意味は? 169
あとがき 177
□コラム「野中先生の虫よりな話」
①ラオスのたこ焼きはアリのコで 85
②カブトムシの「絆」―タイ北部のカブトムシ相撲 97
③カラハリ砂漠の虫遊び 134
④幻のカミキリムシを求めて 158
⑤虫料理を作ってみよう 164
⑥学校で試食 173
○昆虫食に親しむためのガイド 183
イラスト・口絵 柳原 望み
装幀 こやまたかこ
企画編集協力 戸谷龍明
■「あとがき」より(中間部分)
科学というと、新しいことを発見したり、公式を作ったりすることだと思う人もいるだろう。もちろん、それは大切だ。人の暮らしにも公式といえるものがあるかもしれない。 けれども、その公式からどれほど外れられるのか、公式にあてはまらないことも現実にあるんだって知ることは、まだまだ人間はできることがあるんじゃないかと気づくきっかけになるだろう。 ぼくの研究の立ち位置はそんなところになる。
■書評
別館
○■縄文人の入墨─古代の習俗を探る■ ― 2016年04月03日 09:32
著者:高山 純
出版社: 講談社
昭和44年9月24日発行
306ページ
■著者について
昭和十三年(一九三八)、神奈川県生まれ。昭和三十八年、慶応大学文学部史学科(東洋史専攻)大学院修了。同四十二年から四十三年にかけて、東京教育大学国分直一教授に師事し、「南島の古代文化」にちて学んだ。同四十三年九月から四十四年四月まで、ホノルルのビショップ博物館に招かれ、オアフ島マカハの住居地発掘に従事した。日本考古学協会・日本民族学会・日本人類学会会員。専門は太平洋の考古学・民族学。(本書より発行当時の情報)
■カバーそでの紹介文
三世紀末の日本にも、こんにち、未開民族のあいだにみられる入墨習俗があったらしいことは、中国の記録によってほぼ疑いがない。考古学者の研究によると、この習俗はわが国の新石器時代である縄文時代にも認められるという。もしそうであるとするなら、この入墨習俗はいったいどのような特徴をもったものなのか、また、日本の中において生まれたものなのか、あるいは、外部から伝播してきたものなのか、もし後者であるとするならば、どこの地域から伝播してきたものなのか?
私は、今日、民族学者が未開民族の調査に出掛けるように、縄文時代に民族学者が日本に上陸し、当時の住民である「縄文人」についていろいろな民族学的調査をするというところまで、日本の考古学をもっていきたいと、いつも考えている。つまり、考古学を従来の遺跡・遺物のみを対象とした学問から、人間を相手にした学問にしたいと思っているわけである。本書はこの私の理想に近づこうとした最初の試みである。
■目次
まえがき
はじめに 8
第一章 縄文人の顔面入墨 13
諸先学の研究 14
縄文人のこのんだ入墨文様 24
第二章 入墨をあらわす古代の日本語 33
「入墨」をあらわす言葉 34
南方地域の入墨をあらわす言葉 40
北方地域の入墨をあらわす言葉 50
入墨をあらわす言葉からながめると、どのようなことがいえるか 51
第三章 受術者、施術者および助手 55
受術者 56
施術者 72
助手 76
第四章 入墨のなされる部位 79
部位と気候との関係 80
東アジア、オセアニアにみられる入墨の部位 82
部位の比較から系統問題が解明できるか 105
第五章 重要な文様とその意義 107
十字形文様 108
ヤスコの起源を探る 116
装身具をモチーフとする入墨文様 122
魔除けのための入墨 126
百足文様 135
倭人の入墨文様とその意義 143
古代中国南部の入墨文様とその意義 150
第六章 入墨と成年式との関係 155
豊穣と入墨 156
首狩りと入墨 166
男子の成年式としての入墨 178
成女式としての入墨 183
第七章 通過儀礼としての入墨 203
縄文人の男子の入墨される資格 204
成女式の入墨 204
第八章 入墨の工具と顔料 217
入墨の仕方 218
顔料 222
第九章 特別の習慣ないし儀式 225
施術の季節および日取り 226
施術の場所 227
祖先あるいは神への祈祷や供物 228
受術者を励ますための唄 231
第十章 禁忌について 235
日本の「不浄」を連想させるものへの禁忌 236
過度の出血を防ぐための禁忌 237
食物にともなう禁忌 239
施術時および施術後の禁忌の及ぶ範囲 242
季節による禁忌 244
第十一章 来世への入場権としての入墨 245
たいていの入墨習俗にみられる信仰 246
二つのタイプ 248
第十二章 今後の問題 265
ハンブリーの仮説の紹介 266
入墨の伝播・起源に関する私見 272
今後の課題 281
第十三章 縄文人の入墨習俗の特徴 289
参考文献 298
あとがき 305
装丁 稲垣 行一郎
図版 加藤 新
■書評
別館
○■密林の食葬族■ ― 2016年03月06日 10:20
著者:芥川 玲司(あくたがわ れいじ)
出版社: 恒友出版株式会社
昭和59年3月15日発行
276ページ
■著者について
芥川 玲司(あくたがわ れいじ)
1940年(昭和5年)、上海市の郊外で養蜂業を営む中国人の長男として出生。幼年時を日本で過ごした後帰国、16才の時再び来日。雑誌などの記者を経て海外旅行関係の仕事を始める。1965年(昭和40年)に日本女性と結婚、1男1女を得たが離婚。精神的ショックから脱出するためにアフリカ行きを決意。1968年(昭和43年)夏、同行者3名と共にアフリカ横断の旅に出て2年間にわたり各国の部族と起居を共にする。現在、縫製と貿易関係の仕事に従事。東京都杉並区に在住。(出版時のデータです)
■カバー裏表紙に記載された紹介文
文明の届かぬ中央アフリカの奥地に、死者を食う部族=食葬族=がいた。
彼らは、死者を弔うために、
その生肉を、骨ひとつ残さずに食べるのだ。
著者は、アフリカ横断の最後に、前人未踏の密林に向う。
そして、食葬族(ベラル族)に出会い、神秘の儀式=食葬=を目撃する。
初公開!!食葬族の風習、密林での野生の生活。想像を絶する体験記。
■帯(表)より
魂よ永遠に!!
アフリカの奥地に遺る、神秘と怪奇の「食葬の儀式」。初めて公開されるアドベンチャー・ドキュメント
■帯(裏)より
著者は、異民族との心の交流を求め、2年間にわたってアフリカ全土を旅した。
■「あとがき」の終わりの部分
アフリカ横断中の約二年間に、われわれは五百本以上のフィルムで撮影をしたが、一九七八年(昭和五十三年)一月十五日夕刻、私の外出中に隣家から出火した火災により、私の家も全焼し、貴重なフィルムを焼失してしまった。いまさらながら残念でならない。
われわれをベラル族の部落まで案内してくれがンガとフウリカの二人は、再び彼らの部落まで案内してくれた。ムサンボ族の部落で約束どおり私は牛を贈った。ンガは、その牛をフウリカの父親に贈り、結婚した。部落あげての結婚式を見ていて、私は二人がいつまでも幸せであることを祈った。
この手記は、十三年目にしてようやく陽の眼を見ることになった。最後になったが、陽を当てていただいた恒友社出版斎藤繁人社長ほか社員の皆様方に深く感謝の意を表する。
一九八四年二月吉日 芥川玲司
■書評
別館
◎■家畜になった日本人――ネパールに学ぶ健康な生活■ ― 2016年02月07日 09:28
著者:今野 道勝 (こんの・みちかつ) 発行所: 山と渓谷社 1982年6月1日発行 217ページ
■商品の説明
内容
産業革命以降の経済発展の代償として「大切な何か」を失った日本人。欧米だけに目が向きがちななか、以前からの暮らしの残るネパールに目を向けることで、自己変革を余儀なくされるほどのショックをうけるとともに、工業先進国の今日的な健康問題を考える場合の新たな視点が定まった。
著者について
今野道勝(こんの・みちかつ)
昭和20年生まれ。東京都出身
昭和45年 東京教育大学大学院修士課程修了(健康教育学専攻)
昭和45年 九州大学教養部助手、同講師、助教授を経て、昭和57年まで九州大学健康科学センター助教授
昭和58年 病没
専門 生理人類学
著書として、『現代生活と体育』(学術図書)<共著>および『栄養と運動と健康――健康の生理人類学』(朝倉書店)がある。
■目次
[プロローグ]
なぜネパールなのか 9
I 歩けなくなった日本人
美しかった彼らの歩行姿勢 16
距離の単位「スタジオン」 23
山岳民族に見る優れた歩行能力 30
なぜ歩くことにこだわるのか 36
ヒトは長距離型の動物だった 42
足は靴のためにあるわけではない 48
カトマンズの散歩道で考えたこと 54
日本の子どもたちは大丈夫か 60
山村の人に多い善玉コレステロール 66
健康の町・久山町の街づくり 72
II 虚弱になった日本人
握力が強ければ体力もあるのか 80
ネパール人の酸素摂取能力 86
虚弱化はすでに若者たちから 93
知っておきたい「適度な運動」の意味 100
繁殖用の豚は運動をしていた 106
日本人の血圧はなぜ高いのか 112
まるで違っていた彼らの耐寒力 119
なぜか薬がよく効く人たち 125
低下している日本人の視力と聴力 130
「文化と子育ては反比例する」 135
鶏と卵と人間と 141
III 錯覚してきた日本人
生物学的な不潔と物理化学的な不潔 148
青い山脈があるということ 153
肉体のバランス機能を測定して 158
「見る祭り」に欠けているもの 164
日本人の大型化がもつもう一面 170
質素な食事と豊かな食事の差 176
問題が多い砂糖の多量消費 182
動物性食品をうまく利用しているか 188
虫歯がない人たちに出会って 195
自給自足の村・コテンの住人 200
[エピローグ]
ヒトの定点観測所 207
参考文献 213
あとがき 214
カバー・扉イラスト 下谷二助
口絵写真 山と渓谷社
本文写真 健康科学研究会・山と渓谷社
ブックデザイン 小泉 弘
■書評と内容の紹介
別館
○■笑顔で花を咲かせましょう 歌って踊るオバァたちが紡いだ「命の知恵」■ ― 2016年02月02日 09:33
KBG84(小浜島ばあちゃん合唱団) (著)
単行本: 205ページ
出版社: 幻冬舎 (2015/12/17)
■商品の説明
内容紹介
たくさん泣いたから、笑顔が輝く。沖縄の離島に住む、史上最高齢のアイドルユニットのオバァたちが明かす、長寿と健康と笑顔の秘訣。
80歳から97歳まで――史上最高齢のダンス&ヴォーカルユニットユニット・KBG84。「小浜島・ばあちゃん・合唱団・平均年齢84歳」の略。
沖縄の離島に住むオバァちゃんたちが明かす、長寿と健康と笑顔の秘訣とは?
○「つらかったこと」を自慢しても、幸せにはなれません。
○いっぱい笑うと、いっぱいお腹が空く。
○泣いていると、人が来ない。
○長生きは、人生のご褒美。
○信じるものには、効果がある!
○神様にいつでも感謝できるように、毎日を丁寧に暮らす。
○来年のために、今年の仕事をする。
○踊ることを覚えたら、楽しみが増えた。
○勝っても負けても、楽しい。
○昼寝はしないのが、元気の秘訣。
○何歳になっても、恋の話は、生きる力になる。
○「不便」と「自由」は隣り合わせ。
○自分に感謝し、自分を褒める。
○相手のいいところを見つければ、怒らずにすむ。
○隠しごとはしない。我慢はしない。
○年上を敬うのはあたりまえ。
○人を褒めると、自分も嬉しくなる。
○一日の始まりはお化粧から。
この島のオバァは、よく働き、よく笑い、よく食べ、よく感謝する。
そして、神様を大切にし、行事を大切にし、自然を大切にし、仲間を大切にする。
内容(「BOOK」データベースより)
80歳から97歳まで―史上最高齢のアイドルユニット・KBG84。沖縄の離島に住むオバァちゃんたちが明かす、長寿と健康と笑顔の秘訣。
著者について
「KBG84」は、「小浜島・ばあちゃん・合唱団・平均年齢84歳」の略。史上最高齢のダンス&ヴォーカルユニットだ。
もとは、二十数年以上も前に高齢者をケアするボランティア組織「うふだき会」のもとに島のオバァたちが集まって始まった合唱団だが、次第にその活動が注目され、2013年にサントリー地域文化賞受賞、2014年には厚生労働大臣から表彰を受けた。2015年には東京と大阪でのライブが大成功。名称を「KBG84」と改め、“天国に一番近いアイドル"としてテイチクレコードよりメジャーデビューも果たす。JapanTimes、AFP、BBC、CCTVなど海外のメディアでも紹介される。
KBG84の入団規則は、80歳以上。80歳未満のオバァは研究生となる。現在、団員は三十人、研究生が十人。
■目次(大項目のみ)
まえがき―人の心に花を咲かせるのは「笑顔」です 3
第一章 笑顔で花を咲かせましょう 目仲トミ(92歳)
第二章 願いをつないで生きる 山城ハル(97歳)
第三章 思う。動く。そうすれば叶う 花城キミ(90歳)
第四章 人を笑顔にするのが「知恵」 白保夏子(84歳)
第五章 私たちの生きる道―オバァたちの座談会
あとがきにかえて―つちだきくお 200
(注:第五章の参加者は、四章までの方々とは別のそれぞれ3名ずつ3回、合計9名です)
■「あとがきにかえて」から(終わり近くの一節)
この本で語られたオバァたちの半生からは、メディアで見せる華やかさとは違う、ひとりの女性としての姿が伝わってきて、僕も知らなかったことが多いです。笑って楽しく生きている彼女たちの背景には、現代の生活に慣れた人にはわかりえない多くの苦難があったことも知り、頭が下がります。
(中略)
もうひとつ最後に――。ばあちゃん合唱団は、花城キミさん(今は名誉会長)の「どうにかしたい」という想いが始まりでした。それを隣に住む白保夏子さんがたぐいまれなジンブン(アイデア)でサポートし、周りの女性たちも巻き込んで、できあがりました。そして今や、世界中にその笑顔が発信され、メジャーデビューまで辿り着き、大輪の花を咲かせました。これを八重山では「ピトゥールピキ ムールピキ(ひとり引き 群れを引き)」と言います。「ひとりを引くと、いつしか群れをも引く」という意味。 まずは「ひとりの一歩から」という意味の諺です。まさにそれが実現したものだと思います。
■書評
別館
○■インディアンの言葉 (コレクション「知慧の手帖」) ■ ― 2016年01月25日 08:50
ミッシェル ピクマル (編集), 中沢 新一 (翻訳), エドワード・S. カーティス(写真)
単行本: 46ページ
出版社: 紀伊國屋書店 (1996/09)
■商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
樹々と語り合い大地に抱かれる崇高にして深遠なインディアンの哲学。
内容(「MARC」データベースより)
いのちとは何か。それは夜を照らす蛍のきらめき。凍てつく冬の空気に野牛の吐く吐息。草の上に落ち着かない姿を映しながら日没とともに消えていく、ちっぽけな影…。樹々と語り合い大地に抱かれるインディアンの哲学。
■訳者からの言葉(冒頭部分)
この本に収録されたインディアンの言葉は、どれも悲痛な響きをはらんでいる。19世紀の中頃、西欧の産業革命の発達の影響は、アメリカ大陸にも波及し、白人による「西部開拓」は、それまでの時代とはちがった、むごい暴力性を、おびはじめたのである。「開拓者」たちにとっては、土地はそれだけでもう投資の対象であり、大地はそこからエネルギーと資源を絞り出すための、ただの物質とみなされた。
しかし、その大地の上には、すでにこの大陸の先住者たるインディアンが数万年の歴史を、刻んでいたのである。インディアンにとっては、あらゆる自然が宇宙そのものであり、それはモノでも、対象でも、素材でもなかった。彼らにとっては、人間と自然をともども巻き込みながら、ダイナミックな全体運動を続けている、崇高な宇宙的力の実在を、日々の生活の中で感じ取っていられることが、人間にとって、一番大切な倫理の厳選だと、考えられていた。大地を売り買いすることなどもってのほかだったし、宇宙の全体運動の中にあるものの一部分を、それだけ切り離して、言葉や計算によって操作したり、支配したりする、西欧的なものの考え方を、どうしても認めることはできなかった。
■書評
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