独自の視点で本を選んで紹介しています。

aroha.asablo.jp/内をGoogle.comで検索します


「Amazon.co.jpアソシエイト」

◎■逝きし世の面影■2015年06月20日 11:10

明治の本当の姿を知るには、その前の時代を知ることが必要だ


渡辺 京二 (著)
単行本(ソフトカバー): 604ページ
出版社: 平凡社 (2005/09)

■商品の説明
内容(「BOOK」データベースより)
「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ」近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊。1999年度和辻哲郎文化賞受賞。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
渡辺/京二
1930年、京都市生まれ。日本近代史家。書評紙編集者などを経て、河合塾福岡校講師。熊本市在住(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次
第一章 ある文明の幻影 9
第二章 陽気な人びと 73
第三章 簡素とゆたかさ 99
第四章 親和と礼節 145
第五章 雑多と充溢 205
第六章 労働と身体 235
第七章 自由と身分 235
第八章 裸体と性 295
第九章 女の位相 341
第十章 子どもの楽園 387
第十一章 風景とコスモス 427
第十二章 生類とコスモス 481
第十三章 信仰と祭 525
第十四章 心の垣根 557

あとがき 581
平凡社ライブラリー版 あとがき 585
解説―共感は理解の最良の方法である 平川祐弘 591
参考文献 601
人名作品 604

■あとがき(抜粋)
(第一段落)
  『逝きし世の面影』を平凡社ライブラリーに加えて下さることになってほっとしている。 版元が重版をしなくなってから、この本は幻の本になりおうせたとのことで、古本屋を探したが手に入らぬ、何とかならぬかという問い合わせをずいぶんと受けた。 手許にいくらか持っていたのも方々から召しあげられ、私自身一冊しか持ちあわせない有様である。 平凡社ライブラリーになれば、問いあわせを受けて心苦しい思いをすることもない。 そういう次第で、この本に目をつけて下さった平凡社の編集者二宮善宏さんに深く御礼申しあげたい。
(第四段落)
  私はたしかに、古き日本が夢のように美しい国だという外国人の言説を紹介した。 そして、それが今ばやりのオリエンタリズム云々といった杜撰な意匠によって、闇雲に否認されるべきではないということも説いた。 だがその際の私の関心は自分の「祖国」を誇ることにはなかった。 私は現代を相対化するためのひとつの参照枠を提出したかったので、古き日本とはその参照枠のひとつにすぎなかった。 この本はそれまで私が重ねて来た仕事からすれば、突然の方向転換のような感じを持った人びともいたらしいが、私の一貫した主題が現在という人類社会の特殊なありように 落着かぬ自分の心であった以上、そういったものでもあるまいと自分では思っている。 だが、そういうくだくだしたことはこれ以上書くまい。 この本が呼び起こした反応とそれに対する答えは、すでに「逝きし世と現代」(『渡辺京二評論集III・荒野に立つ虹』所収。葦書房、一九九九年刊)と題する小論で述べておいた。

■第十一章 風景とコスモスから
ヒューブナーは言う。「日本人は自然が好きだ。ヨーロッパでは美的感覚は教育によってのみ育み形成することが必要である。ヨーロッパの農民たちの話すことといえば、畑家の肥沃さとか、水車を動かす水量の豊かさとか、森の値打ちとかであって、土地の絵画的魅力についてなど話題にもしない。彼らはそうしたものに対してまったく鈍感で、彼らの感じるものと言ったら漠然とした満足感にすぎず、それすらほとんど理解する能がない有様なのである。ところが日本の農民はそうではない。 日本の農民にあっては、美的感覚は生まれつきのものなのだ。たぶん日本の農民には美的感覚を育む余裕がヨーロッパの農民よりもあるのだろう。というのも日本の農民はヨーロッパの農民ほど仕事に打ちひしがれてはいないからだ」。ヒューブナーはオーストリアの貴族であり、かつメッテルニヒの腹心だったという外交官である。いったい彼は自国の農民についてどれだけのことを知っていてこういう断言をしたのだろうか。また、「肥沃な土壌と雨と太陽が仕事を半分してくれる」ので、日本の農民は戸口で寝そべって美しい風景を楽しんでいるなどと、どんな 知見に基づいて書くことができたのだろうか。しかしこれが全部与太話だとしても、彼が前引のように感じたという事実は残る。彼は、自分が実見した富士山麓の美しい村々のたたずまいに幻惑されたのかもしれない。だが当時の日本の村のたたずまいには、自然美を生活の重要な一部としてとりこんだ暮らしを実感させるような、 何ものかがあったことはたしかだ。

■一言
第一章は抽象的であり、難解であるため、無理せず、早めに第二章以降に進むことをお勧めします。

■書評
明治の本当の姿を知るには、その前の時代を知ることが必要だ

○■海女の島 舳倉島 〔新装版〕 (転換期を読む)■2015年06月11日 08:44

半島国家に生まれたイタリア人の目を通して知る、日本人と海の親和性の高さ

フォスコ マライーニ (著), Fosco Maraini (原著), 牧野 文子 (翻訳)
単行本: 163ページ
出版社: 未来社; 新版 (2013/9/30)

■内容(「BOOK」データベースより)
日本の文化に深い関心を寄せたイタリアの人類学者フォスコ・マライーニ。1950年代に記録映画撮影のため日本各地を訪れた著者にとって、舳倉島の人びとの生活は「詩的」であり「偽善とタブー」から解放してくれるものだった。
著者について
フォスコ・マライーニ(Fosco Maraini)1912年イタリア・フィレンツェ生まれ。写真家、登山家、人類学者、東洋学者。2004年逝去。1930年代後半に日本に留学。北海道大学医学部に所属し、アイヌの信仰やイクパスイについて研究した。1946年イタリアに帰国、1953年再来日、日本各地をまわり記録映画を撮影した。京都帝国大学(現京都大学)でイタリア語を、フィレンツェ大学では日本文学を教えた。1987年~88年、京都の国際日本文化研究センター客員教授。1986年に国際交流基金賞受賞。著書『ヒマラヤの真珠』(1943年、精華房)『チベット――そこに秘められたもの』(1958年、理論社)『ガッシャブルム4――カラコルムの峻峰登頂記録』(1962年、理論社)『海女の島《舳倉島》』(1964年、未來社)『JAPAN』(1971年、講談社)『随筆日本――イタリア人の見た昭和の日本』(2009年、松籟社)ほか。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
マライーニ,フォスコ
1912年イタリア・フィレンツェ生まれ。写真家、登山家、人類学者、東洋学者。2004年逝去。1930年代後半に日本に留学。北海道大学医学部に所属し、アイヌの信仰やイクパスイについて研究した。1946年イタリアに帰国、1953年再来日、日本各地をまわり記録映画を撮影した。京都帝国大学(現京都大学)でイタリア語を、フィレンツェ大学では日本文学を教えた。1987年~88年、国際日本文化研究センター客員教授。1986年に国際交流基金賞受賞
牧野/文子
1904年大阪市生まれ。神戸女学院卒業。「東京時事新報」記者を経て詩人として活動、翻訳なども手がける。1984年死去(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次
日本語版への序文

1 腕、頭、脚、包み、子ども、袋、お尻、靴などの大洪水
2 《ヒツジ雲》の空は、《ウロコ雲》の空
3 海の子、海女
4 ほんものの海女を探し求めて
5 うさん臭さを、見て見ないふり
6 黒く険阻で、不気味な七つ島
7 土地を耕すですって? なんて恥ずかしいことだろう!
8 岩の筏に乗ってる人間と神様
9 灰色の石ころ道
10 《島の王さま》の家で
11 タイが海士、海女の心をやわらげる
12 イロリのそばに坐って
13 海底で、海女たちと
14 わずかな撮影にたいした苦労
15 一握りの土で、深淵を満たす
16 大鍋での入浴
17 ミコシは、神さまのおぼしめしで踊る
18 死者たちは海へ帰る
19 美人、妙子の岩礁、御厨島
20 儀礼的なあいさつと心からのあいさつ

訳者あとがき
解説 イタリア人の見た日本のヴィーナスたち(岡田温司)

■一言
解説はいまいち

■書評:
るびりん書林 別館