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○●未知の裸族ラピチ●2015年07月23日 10:39

昭和42年に発行されたアマゾンのラピチ族訪問・滞在(2カ月)の記録


飯山 達雄 (著)
朝日新聞社発行
昭和42年6月30日
284ページ

■商品の説明
内容の紹介
狩猟民の姿に感動し、世界各地の民族を訪ねるうちに、米大陸の先住者たちがモンゴロイドであることを知って精力的に取材を始めた著者。一年中収穫できるマンジョーカを主食としたために、貯蔵の必要もなく大規模な組織の誕生も避けることができた、南米アマゾンの裸族ラピチを訪ねる道筋と、そこで過ごした日々が描かれている。

著者について
飯山達雄(いいやま・たつお)
1904年横浜生まれ。1930年頃より山岳に興味をもち、北朝鮮の未登峰を次々に登攀。1937年より北満、内蒙古、ゴビ砂漠の探検旅行。1943年より南米大陸へ旅し、10年間にわたってモンゴロイドを追い、マト・グロッソ、アマゾンを経てアンデス沿いに南下。マゼラン海峡を超えて、氷河の島ナヴァリーノ島へ渡って写真取材。1965年帰国。現在日本写真家協会員。
著書―「朝鮮の山」、「金剛山」、「蒙疆の旅」、「ブラジル」、「バガボンド12万キロ」、「ニューギニア」(朝日新聞社刊)、「インカの織物」(朝日新聞社刊)などがある。
(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

■目次
カラー・ページ 3
グラビア・ページ 123
グラビア・ページ 191

第一章 密林の掟 17
四季のない緑の砂漠/文明と原始の境/カソリック神父の失敗/巨人裸族の出現/便利な言葉「カナウン・カリ」/大密林での野宿
第二章 裸族を求めて 39
はじめの目的はスーヤ族/目的地バスコンセイロス/面倒な入蕃許可/助手から梅干まで/南米のへそクヤバ/テコテコやぁーい/着陸寸前で引き返す/干首はごめんだ
第三章 密林のダイヤ掘り 62
ガリンペイロ殺人事件/ドル両替は宝石商で/女の囲い場/一万五〇〇〇人のダイヤ掘り/アグスト親方の話/ダイヤ掘りの掟/女連れの仲買人/あわや拳銃一発/弾丸除けの報酬
第四章 ついに裸族を見つけた 89
金時豆つきの安宿/パイロットをだます/乱麻の川に迷う/文明社会よ、さらば/シュカラマエ族/密林の貿易/未知の巨人族ラピチ
第五章 部落にはいる 111
ナイロン糸を引きちぎる/生命の保証のない地域/ポパイ誕生/ラピチ部落にはいる/酋長の夫人は二人/ラピチのご馳走/最初の晩
第六章 石器人の暮し 136
すべて石器時代/陰毛のないわけ/ウスノロ君は武器メーカー/主食マンジョーカ/ラピチの副食/鳥を食わないわけ/ラピチの調味料/バクカツの由来/ラピチの人的構成/サイルア酋長の権力
第七章 ラピチと私 161
土産物で文化革命/ウィテケの会/速成の理髪教師/結婚の有資格/成年式と呪術師/残酷な瀉血/女の子の成年式と求婚/結婚と出産
第八章 ラピチはモンゴロイド 185
水浴び/モンゴロイドの確証/畑作と狩猟/美容・整形・アクセサリー/アフェニッツェの急死/お葬式/呪術と医薬
第九章 さらば密林の自然児よ 217
スピード写真屋開業/絵に対する反応/あわや、横恋慕/言葉の採取/数の観念/別れを告げる/約束の飛行機来る
第十章 密林の大牧場主 241
徹夜の野外舞踏会/夜空の虹/目玉の松ちゃん/ファゼンダーごとに温水プール/四国がすっぽり入る所有地/奇想天外な開拓法/荘大な火入れ/貯える牛は二〇万頭/趣味もおおがかり/牧童の結婚式/花嫁を奪い合う

あとがき 276

■「あとがき」の冒頭部分
  戦前、朝鮮に住んでいた私は、手近な北満州(現在の中国北東部の北方)や内蒙古を歩き、ゴビ砂漠へと足を延ばしていった。
  一九三七年(昭和十二)年、北満のハイラルへ旅したとき、北興安嶺の山奥へでかけた。 そのとき、はじめて草原の放浪児といわれるオロチョン族にめぐり会い、彼らが狩猟だけにたよって生きぬいている姿をみた。 ノロ鹿を倒して肉を食い、皮を剥いでテントに使っている彼らの生活は、生まれて間もない大地に生きる原始人を見たような気がした。
  それが動機で私は、暇をつくっては内蒙古からゴビへと、モンゴル、キルギスを追い、彼らの生活記録の写真を撮って歩いた。
  一九四一(昭和十六)年、そのときも私は、内蒙古のシリンゴールへはいり、ブリヤート・モンゴルの写真を撮って任地の京城へ帰ってきた。 すると、間もなく日本は悪夢の太平洋戦争に突入し、私のモンゴルの追求の写真記録は棚上げのやむなきにいたった。
  戦争中はニューギニアへ行く機会をえて、大ジャングルの中でまる二年間、首狩族のマネキオンを始め未開族と暮らした (マネキオン族は炭田調査地の付近に蟠居(ばんきょ)していたので、これを宣撫して協力させた)。 この体験はその後のブラジル・インディオとの接触に大いに役立ったのである。
  一九五五(昭和三〇)年、私が初めてブラジルへ旅したとき、サンパウロの映画館で「裸族・シャパンテ」という記録映画を見た。 実はそれまで私は、ブラジルの密林中に住むインディオは、アフリカ黒人系の未開族くらいに考えていた。
  ところが、画面に現れたインディオは、まぎれもないモンゴロイド――いうなれば、われわれ日本人と祖先を同じくしたアジア人種の中の類蒙古人(モンゴロイド)なのだった。
  この映画を見た瞬間から、一九三七年以来の私のモンゴル追求欲が再燃し、これこそは「私、生涯の仕事」と、アメリカ州のモンゴロイド追跡の執念を強く固めたのである。
  それからというもの――一九六二(昭和三七)年までの七年間は、アマゾンからマト・グロッソの密林地帯を歩きまわって、ブラジル・インディオの数部族に接触した。
  次には、パラグアイのグァラニー族、ペルーのヒバロ族、ケチュア族(インカの子孫)、そして、またまたブラジルのラピチ族を訪ねてチリへ飛んだ。
  チリではアラウカーノ(アラカニア族ともいう)と、さらに南米最南端のマゼラン海峡を越えてナヴァリーノ島と呼ぶ氷河の島へ渡り、 ジャガネス(ヤーガン族ともいう)の取材を終り、一九六五年資料整理のため一たん日本に帰ってきた。
  考えてみると、アメリカ州のモンゴロイドの追求を始めてから、すでに一〇年という暦日を重ねた。 だが、これだけでは、まだまだ――中米グアテマラの密林の中にはマヤ族の子孫といわれるラカンドーネス(ラカンドン族ともいう)が残り、北極圏には、数多い部族のエスキモーがいる。
  それらの中に、彼ら民族の伝統をうけついで生きている純粋の部族がどのくらいいるものか……それを追い求めて記録するには、まだ相当の時間がかかりそうだ。

■一言:
裸族と暮らしているときよりも都市に戻ったときに、ビキニスタイルに「てらい卑猥の混合」を感じたことや、蜂蜜を採るラピチの女性たちが平気で蜂に刺されていることなど、貴重な体験談も含まれています。
『ゾミア』にあるように彼らもスペイン人たちから逃れて原始生活に戻った人々なのかもしれません。

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